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novel, essay, poetry, criticism, diary

あいつと俺 Part3

私は私がとても若い頃で記憶していることは、当時私には当時とても嫌な気持ちで為された非常に厳しい印象は、その作品は情熱的に私によって作られた、と言えるいくつかのものは、私の作品を賞賛しそのウィットを評価するすべての人の中にも、私に非常に厳しい批判の表情を持っている可能性があるけれど、今の私には彼ら全ての意見を理解することができるのだ。実際に当時、私は彼らの正しさを受け入れたくなかったのだが、私にも欠落した分部が明らかに存在していると私の創作家としての能力を認識してた当時でも、潜在的に私の心にも、貴方は貴方の為にも私の為にも、私は私の為にも貴方の為にもあると知っていた。


最終的に私は、誰かの仕事を厳しく批判するのではなく、いつでも、誰かを賞賛したり拍手したりするのでもなく、誰かがそれを正直に批判するのであれば、私たちは皆、誰からも厳しく批判されていても、自発的に自分自身で前進することのできる存在である筈だからなのだ。



一方、ある仲間から、私の仕事では、今説明された様なことがあったある日、非常にぶっきらぼうな語りっぷりだったのだが、それは結局生涯私にとって今も尚忘れられない言葉となった語りかけだったのだ。


私が勤めていた会社の経営者が私の仕事の成果を全く評価せず解雇され失業した後、”何かあてでもあるのか、まあ、とにかく頑張れや!”
彼の言葉は今でも決して忘れられない。



意外にも、私たちが一人の人間として落ち込んでいるとき、非常にぶっきらぼうな語り掛けをしてくれることが寧ろとても個人的に私たちを癒してくれる、ということはあり得るのだ。


結局今でも、私は彼の言葉、私は彼の名前を覚えていないのに、ちょうど彼の年齢は私に非常に近かったこともあって決して忘れることができないのだ。



そのような個人的に忘れられないエピソードは、私たちにとって記憶に残る偶然の出来事である。 その非常に俗的な話は、それほど親しい友人ではないか、または些細な挨拶だけしている見知らぬ人でも、街中で向かう行く先迄の道順を質問するとか、地理的に正確な情報がない等にあり得ることなのだ。よくある事だけれど、普段の仲間でも、全く私たちが偶然出会い、やがて親しい知人となる様な事で貴方にもよく分かる事だと思う。




話しを元に戻そう。




実際のところ、むしろ非常に厳しい批判や評価された事は、私たち自身の日常的場面で周りの人の話しで、相手から賞賛されたりするか否か、個人的な場面は、どんな場面でもどちらかである可能性があるけど、いずれであっても意外とそういう事以上に私たちにとって忘れられない事はないものである。
以上の様な事できっとそう言わせてきたに違いないのは、おそらくとても正直な印象や衝動的に悪意のない些細な口実でつい思いをぶちまけてしまっただけかもしれないし、時には、賞賛だけ熱心に話すことは一種の社交辞令でしかない場合も多分にあるとも言えるし、寧ろそっちの方こそいつでもどこでも見られることだ。 最悪の状況では、その話は只単に私たちに対して仲間であるふりをするか、お世辞だけである可能性がさえあるのだから。



つけ加えれば、お互い知り合って直ぐにお互いを賞賛する関係は、それほど長く続くことはなかったものである。これらの社交辞令行為は戦略的広報関係に過ぎないから、必然的にそれらのやりとりは、ビジネスで公に必要な現場の潤滑剤という点で必須ではあるものの、私が今述べているテーマとは、私たちにとってより個人的な人間関係の事だからだ。



共感するアピールには、二つの異なるタイプの表現がある。一つはビジネス談話のためだけのものであり、二つ目はとても個人的であり、特に若い頃には誰にとっても後者はとても不可欠である筈である。これらの話や人間関係の経験がない人、特に若い世代は、誰もがこれら多様な人間関係を持ち、大人社会にとって感情的にも不可欠な一同で調子良く仕事等を開始する必要がある為、自分自身にはとても屈辱的に感じたり、必然的に不自由に思えたり、無意識のうちに屈折して解釈する傾向はあるものだ。




最終的には、もちろん、本当に賞賛するメッセージは私たち全員が、何等かの形で持つことができると言えるが、賞賛する話の内容はすべて正直、言い換えれば、私たちが聴かされた話の印象はあまり良くないだけで、その話し手によってはむしろ正直な印象であるだけのことはあるのだ。 それは悪意ある底意地の悪い中傷等ではない限り、厳しく率直な印象をもって評価するのなら、嘘だと受け取るべきではない。




言い換えれば、私たちはすべて私たちへの厳しい批判者に感謝し、そういう態度でいるべきであり、個人的に、私たちは私たちに与えられた仕事で行き詰まっているとき、むしろそう厳しい批判は、私たちに暗闇から別の出口を導くための有益なアドバイスとして非常に貴重な宝物として私たちの心と脳に働きかけることができ、困難な状況でそう絡み合った心を解決するための知恵でさえあり得ると認識すべきなのだ。



本当に、非常に多くの拮抗薬とその厳しい攻撃的な意見、さらには敵、ライバルなどが私たちに存在している。 彼らの存在こそ私たちに積極的に彼らを説得し、彼らに私たち自身の能力を説得する野心を持っていなければならない、と知らしめてくれる存在なのであり、或いは闘志とでも言う心持と言うか、最終的には、これらの知覚的な心は、私たちを促進するために私たちに活力を与え、私たちに高度な段階や次元で別のより良い仕事を齎してくれるものなのだ。



率直、歯に絹着せぬメッセージで批判できるような不満を示す仕事を行っていこうと思う。 言い換えれば、映画制作者のための映画鑑賞者全員、作曲家兼ミュージシャン、シンガーソングライター、ダンサー、すべての現代的なエンジニアのための顧客、営業担当者、作家のための読者、小説家、そうでなければ、学者としての研究のための学術サークルのすべての自分達にとっての他者とはは、彼らへの不満という点では、彼らはすべて、実際には長く受け手として経験があればある程大きくリアクションを示してくれる可能性があり、彼等全てへ感謝し、製品を使用した後の購買者の否定的な印象に対しては感謝し、使用し始めた後の彼らの気持ちとはとても正直なものである。 これらの予測評価への裏切りとは、彼等が寛いで鑑賞し、使用するからなのだ。 結果、全てののサプライヤー、メーカー、クリエイター彼らから、不満を印象的に告白されるだけのことなのだ。
彼等全ての正直な不満でジャンル、プロか否かの区別を我々はすべきなのだ。



言い換えれば、私たちは私たちの個人的な古い仲間や知人が私たちを優れたものとしてではなく自分の仕事や主題を評価しなければならなかったように、要するに、私には、私の若い頃の非常に嫌だった事こそ最も貴重な経験であったと言うことができるし、私が近づいていっても親しみやすくなる機会を歓迎されることなく良い印象さえ持たれることができなくても、個人的に私たち自身の記憶だけでは私たちの仕事に正直ではないと言えるからだ。




最終的には、それら周囲の人々の行為、アイデア、マナーは、私たちが個人的記憶では嫌なまたは嫌な感情だけを保持しているものだけが、私たちの最高の矜持、教訓、或いは私たちが個人的にちょうど自分なりに年とってから始めているものでは自分が年長でも周りの大人の世界では新人でなければならないし、周囲は全て自分には非常に厳しい批判者となるだろう。




彼らの存在だけが私たちの本当の姿をよく知る事が出来る様にしてくれることを確認するための独自の主題と感性または感受性を持っているすべての厭な奴らと思える全ての他人に感謝しようではないか。




Feb. 1st., 2021(2月1日)




備忘録;取り敢えず、詩の始まりとともにこのエッセイシリーズはここで終わります。しかし、こんなに忘れられない思い出があったら、これからも同じタイトルで別の記事をアップします。


そして言い換えれば、私たちに対するすべての批判者の声は、たとえ私たちに非常に多くの支持者がいても、最終的にはすべての批判者こそ感謝すべきであり、私たちの真の支持者や仲間による潜在的な自己不満ではなく、只拍手する人達とはそれぞれの行動や態度へ只合わせて一緒に拍手を送っているだけであることを知らせてくれます。 ただ肯定的な賞賛と同情だけでも、ある程度の不満を含めなければならないので、本質的に批判されるようになったが、それはいい事なので、結局のところ、最終的には、ライバルや敵だけでなく、仲間も同情だけでも自分の仕事をいい仕事だとは説得することはできなかったのである。