Blog for Nameless-Value

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雨音の作る静けさ

雨の徐々に広がる夜更けから夜明け迄の、少し重苦しく、でもどこか、明日の朝日の期待も混じったしじまに、巣食う憩いは、更なる激動を、世界へ運ぶ正体不明の未来への力なのか?


それとも、只のその時々の自分の気まぐれか、それを一瞬で見抜ける程、より世界や自分を知るに拙速な自分が疎ましくも、どこかほっとしもする。


自分だけの世界を作れる者には、その者にしか知ることのできない苦悩と悦び、つまり凄絶な悶絶と、恍惚のときめきが同居している筈だ。
ゴッホは、あと数年生きていれば、大金持ちになっていたろう、と言われる。でも、同時にそうであった世界なら、ゴッホは、今日の様に皆に親しまれていたろうか?
慣れが作る見事さや、安定した落ち着きは、今日我々が見てほっとしもするゴッホの美や情熱、或いは純粋さとは、相容れない世界だからだ。


完成とは何か?成熟とは何か?


はたまた、安堵とは何か?落ち着きとは何か?


両方求めても、何もかも見失い、片方だけ求めても、偏りだけが生み出される。と言って、中間に理想があるとも言えない。


梅雨も乾季も理想とも憂鬱とも言えない在り方をしていて、稲作へ奉仕し、石高に誉れを運び、乾季にはその時期にしか咲かない花を進化させるだろう。


静けさとは、それをぶち破る轟音を求めもする。でも、それで砕け散る魂も情感もあるだろう。と言って静けさだけなら、きっと静けさは美と認識されまい。


その時だった。一期に地上から天へ向かって上昇する龍の様な光を見たのは。それは、少なくとも雷ではなかった。でも僕の心の作る希望や祈りの作る霊力でもなかった。


暫くその正体に就いて考えたが、分からなかった。でも、それでいい。と言うのも、結局生とは、完成でも未完成でもない、それらとも違う何かだろうからだ。



その時、何かが自分の目の前に、何かが横切った。でも早過ぎて正体がよく知覚されもしなかった。


でも、それでいい、だって何となくそういう感じが俺みたいと思えもしたから。





June. 9th.    2023